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今日もgood-day

7月放送分

   ♪毎日モーツァルト♪7月放送

<7月3日>第106回 「新居」 ピアノ協奏曲第19番ヘ長調459
第1楽章より
1784年9月にモーツァルト一家は新居に移り住んだ。その家はウィーンの中心部にあった。一家は二階を借りきって暮らしていた。化粧漆喰の天井など室内は豪華な装飾で彩られていた。後に訪れた父はその豪華さに驚いた。二階は6部屋ある広々とした間取りだった。モーツァルトはこの家で妻と息子の3人で暮らした。

モーツァルトは音楽仲間とビリヤードやカードゲームを楽しんだ。遊戯室の奥には「仕事部屋」があった。ピアノ協奏曲第19番はこの部屋で書かれた。後に皇帝の戴冠式でモーツァルト自身が演奏したため「第二戴冠式」とも呼ばれる。

この家で過ごした二年半。モーツァルトは数々の傑作を世に送り出していく。

<7月4日>第107回 「フリーメイソン」 フリーメイソン葬送音楽ハ短調k477第二楽章
18世紀前半、フリーメイソンの支部が発足した。現在はフリーメイソン博物館として公開されている。
中世の石工職人のギルドに起源を持つといわれるフリーメイソンは、自由と博愛を理念とする会員制組織としてロンドンからはじまった。

しかしその神秘的な雰囲気から秘密結社として見られしばしば弾圧された。オーストリアではマリアテレジアがウィーンでの活動を禁止したが、息子ヨーゼフ2世は寛容策をとり、知識人の中で盛んになった。

1784年12月14日、モーツァルトはある男爵の推薦で入会した。熱心に集会に参加し、儀式のための音楽を数多く作曲した。
フラットが3つあるハ短調。「3」という数を重視する、フリーメイソンの思想を表すとされる。木管楽器が奏でる柔らかい低音が、厳粛な響きを創り上げている。
モーツァルトはその後、生涯にわたりフリーメイソンのために曲を作り続けた。
<7月5日>第108回 「父の訪問」 ピアノ協奏曲第20番二短調k466
1785年2月11日ウィーンに到着した父レオポルトは、息子モーツァルトの家に向かった。4年前、モーツァルトがウィーンに移り住んで以来初めての訪問だった。
超とこの日の演奏会で披露される新曲の写譜の真っ最中だった。レオポルトはその様子をナンネルのあてこう書いた。
・・・・・写譜屋はまだ書き写しているところだったし、終楽章を一度もとうして弾く時間が無かったのです・・・・・

演奏会の前日に完成したばかりの「ピアノ協奏曲第20番」モーツァルトが手がけた初めての短調のピアノ協奏曲。
完成したての楽譜を携えモーツァルトは父と演奏会場へ向かった。父が見守る中、自らピアノを演奏し披露した。

モーツァルトの曲の中でも高い完成度を誇るこの曲。その旋律には独特の憂いや哀しさが漂う。演奏会を見届けたレオポルトはその盛況振りを娘に伝えた。・・・・・あの子の演奏会には身分の高い人たちが沢山集まっていました。演奏会もオーケストラも素晴らしいものでした。・・・・

我が子のウィーンでの活躍を初めて目にしたレオポルト。モーツァルトは音楽家として大きく成長を遂げていた。

<7月6日>第109回 「賛辞」 弦楽四重奏曲第17番変ロ長調k458(ハイドン四重奏曲第4番)「狩」第1楽章より
角笛を思わせる軽快なリズムから「狩」という愛称をもつこの曲。ハイドンの弦楽四重奏曲の旋律を意識的に取り入れた部分もあり、ハイドンの影響が色濃い曲。

1785年2月12日、モーツァルトは敬愛するハイドンを自宅に招いた。ハイドンへの敬意を込めて「狩」を含む6曲の弦楽四重奏曲を作る。後に楽譜出版の際、ハイドンに献呈され「ハイドン四重奏曲」と呼ばれる。
その作品披露が自宅でハイドンを前におこなわれた。
故郷から訪問中だった父も同席した。モーツァルトが自らヴィオラを演奏した。
演奏後、ハイドンはレオポルトにモーツァルトへの最大級の賛辞を送った。・・・・・誠実な人間として神の前に誓って申しあげますが、ご子息は私が名実共に知っているもっとも偉大な作曲家です・・・・・

モーツァルトが最も尊敬した作曲家ヨーゼフ・ハイドン。その賛辞はモーツァルトに大きな自信と喜びを与えた。

<7月7日>第110回 「もてなし」 弦楽四重奏曲第18番イ長調k464(ハイドン四重奏曲第5番第1楽章より
レオポルトがウィーンに到着した翌日、尊敬するハイドンを家に招き演奏会が開かれた。「弦楽四重奏曲第18番」はこの演奏会で披露された。繊細で美しい情連に富み円熟した作風を示している。

その後65歳のレオポルトはリューマチで寝込んでしまう。体調を崩した彼を献身的に看病したのは、コンスタンツェの妹ゾフィーだった。

レオポルトはモーツァルトとコンスタンツェの実家を訪れる。かつて二人の結婚に反対し、ヴェーバー家のことを快く思っていなかった。
キジ料理でもてなされレオポルトはヴェーバー家での一時を満喫する。温かいもてないしを受け、その不信感は次第に消え、親しみが増していった。

<7月10日>第111回 「甘美な調べ」 ピアノ協奏曲第21番ハ長調467第2楽章より
1785年3月10日ブルク劇場で演奏会を開いた。この日の演奏会のために書かれたのが「ピアノ協奏曲第21番」
モーツァルトのピアノ協奏曲の中でも人気が高く、穏やかで甘美な旋律が響くこの第2楽章は特に名高い。

演奏会を客席で見守った父は、この頃息子の忙しさに驚いてナンネルへの手紙にこう書いた・・・・・夜の1時前には眠った事がありません。毎日毎日演奏会だし、いつも曲を書いたりしています。弟が作った曲は私がここに来てから少なくとも12回は家から劇場やサロンへ運ばれているのです。・・・・・

かつて幼いモーツァルトを連れウィーンを訪れてから23年。成長した息子は甘美な調べでウィーンの聴衆を魅了していた。

<7月11日>第112回 「不協和音」 弦楽四重奏曲第19番ハ長調k465(ハイドン四重奏曲第6番)「不協和音」第1楽章より
1785年11月「ハイドン四重奏曲」を完成させた。6曲からなる弦楽四重奏曲集。ハイドンへの敬意を込めて作られて事からこう呼ばれる。
その最後を飾るこの極は不自然にも聞こえる和音の響きから「不協和音」の愛称をもつ。
2年余りの歳月をかけ「ハイドン四重奏曲」が完成する。1785年9がつ、この曲の楽譜が出版された。

<7月12日>第113回 「魂のカンタータ」 カンタータ「侮悟するダビデ」k469第8曲「暗い不吉な闇のなかから」
1785年3月、当時のブルグ劇場で一つの声楽曲を披露した。「悔悟するダビデ」は旧約聖書のダビデの詩篇に題材をとっている。

イスラエルの王ダビでは家来の妻を自分のものとするために、その家来を戦いに追いやり戦死させた。神の怒りに触れたダビデは深く自分の罪を悔い許しを請う。紙の許しを得たダビデは改心しその喜びをうたう。

<7月20日>第119回 「フンメル」 ピアノ協奏曲第24番ハ長調k491
モーツァルトに新しい弟子が出来た。ヨハン・ネポムク・フンメル。
モーツァルトはフンメルをピアノの前に座らせ、演奏させた。初めて見る作品をフンメルは見事に弾いて見せた。
演奏が終わるとモーツァルトは駆け寄りそっとささやいた。「承知しました。この子を教えましょう。私の元へおいていきなさい。私が目を離しません。ものになりますよ。」

<7月21日>第120回 「メランコリー」 ピアノ協奏曲第23番イ長調k488
1786年3月モーツァルト30歳。一つのピアノ協奏曲が生まれた。
洗練された美しい旋律。情感あるれる曲である。
ウィーンから遠く離れた風光明媚な街、ドナウエッシンゲン。この町に住むある公爵に提供する。
第2楽章にメランコリックな旋律が現れる。それはやがてモーツァルトに訪れる人生の陰を象徴しているかのように。

<7月22日>第121回 「大作オペラ」 オペラ「フィガロの結婚」
k492序曲第1幕
1786年大作オペラ「フィガロの結婚」が完成した。
原作はフランスの喜劇。貴族社会を痛烈に批判する内容のためウィーンで上演禁止された曰くつきの作品であった。
そのオペラ化に大きな力を貸したのが台本作家「ダ・ポンテ」皇帝ヨーゼフ2世の許可を取り付けた。モーツァルトとダ・ポンテ。二人の出会いが歴史に残る傑作を生んだ。

<<7月25日>第122回 「愛のアリア」 オペラ「フィガロの結婚」
k492第2幕より
1786年モーツァルト30歳。オペラ「フィガロの結婚」は久々の大作オペラとして注目を集めていた。
競争が激しいウィーンの宮廷音楽界。中には若いモーツァルトの新作が上演されるのを妨害しようとする人たちもいた。
しかし、モーツァルト渾身のオペラは思惑を超え、多くの共感を得た。個性豊かで魅力的な人物達。
夫の心変わりを嘆きながらも切々と変わらぬ愛を唄う伯爵夫人。思春期のひたむきな恋への憧れを唄う少年ケルビーノ。
様々な愛の形が、高らかに歌い上げられ聴衆の心を捉えた。

<7月26日>第123回 「アンコール」 オペラ「フィガロの結婚」
k492第2・3幕より
フィガロの結婚は上演を重ねるたびに評判を高くしていった。満席の劇場には「アンコール」を求める声が何度も響いた。
人気を集めたのは一人で歌うアリアだけではなく、複数の歌が重なり合うアンサンブルにも大きな拍手がおこった。
何曲も繰り返されるアンコール。 上演時間は通常の倍以上にも及んだ。ついに皇帝ヨーゼフ二世からアンコール禁止の通達が出されるほどだった。

<7月27日>第124回 「プラハ初演」 オペラ「フィガロの結婚」
k492第3幕より アリア「楽しい思い出はどこへ」
1786年冬、フィガロの結婚のロウィーン初演から半年後、プラハでもこのオペラが上演された。
ウィーンでの評判が伝わり気体は高まる一方だった。自由な雰囲気にあふれていたプラハ。このオペラを熱狂的に迎え入れた。
地元の新聞には「いかなる作品もフィガロの結婚以上に大評判をとったものはない」と書かれた。街中がフィガロ人気に沸く中、貴族や地元の名士たちがモーツァルトに招待状を送る。
彼らの熱心な申し出を受け、プラハ行きを決意する。

<7月27日>第125回 「熱狂のプラハ」 オペラ「フィガロの結婚」k492第4幕より
モーツァルトはむずから劇場で「フィガロの結婚」の指揮をし、熱狂した観客の大喝采に包まれた。




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